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平十字(ヒラトウジ)の秘密(2)



霊界に「響く」天上音楽のこと

ここではルドルフ・シュタイナーが人智学の講義の中で述べている十字の解釈を通して、 平十字(ヒラトウジ)の名に隠されたもう一つの秘密を考察してみることにします。

シュタイナーの講義の中では人間を含む世界についてを、 どちらかというと実生活の霊的認識に基づいて説明していますので、 霊的な世界についてを博物学的にカテゴリ的に分割して話をすることはあまりありません。 しかし霊的な世界のカテゴリ記述をしている数少ない部分も現存します。 それは彼の主著「神智学」(ルドルフ・シュタイナー著 高橋巌訳 ちくま学芸文庫 2000)の 中で言及している霊界の七つの領域についての話です。 七つというふうに分類していますが、 我々が現代に生きる限り、考慮すべき領域は四つである、とシュタイナーは言います。 シュタイナーはこの中で「霊界」を認識することについて、 非常にカタカムナの基本姿勢に近いと思われることを言っていますので紹介しましょう。 初めに「霊界」において「霊視」される事実の説明の後、 シュタイナーは次のように「霊聴」についてを話しています。
「霊界」の中には、 「霊視」されるものの他に「霊聴」の対象として考察すべき別の原像が存在する。 「見霊者」が魂界から霊界へ上ると、 やがてその知覚された原像は、響きはじめるようになる。 この「響き」は、純粋に霊的な事実である。 それは物質界の音とは、 まったく別様に理解されなければならない。 それを体験する人は、音の海の中にいるかのような自分を感じる。 そしてこの音響、この霊的響きの中で、 霊界の精霊たちが自己を語る。 この音響の和声とリズムと旋律の交響する中で、 彼らの存在の原則や相互関係、親和関係が明瞭に示される。

物質界の中で、悟性が法則や理念として認めるものが、 「霊耳」には霊的音楽として表現される。 ピタゴラス派が霊界のこの知覚内容を「天体音楽」と名づけたのは、 このことによる。 「霊耳」をもつ者にとって、「天体音楽」は象徴的、寓意的なものではなく、 よく知られた霊的現実なのである。

(ルドルフ・シュタイナー著 高橋巌訳 2000 「神智学」 ちくま学芸文庫 pp139-140)


霊界の四つの領域

カタカムナ図象における十と○についての秘教的な解釈は、 「ヒフミの時間的解釈」 の中で考察されているので、こちらを参照して下さい。 カタカムナ図象を構成する大円の意義は、 太陽の運行から想像することができるのですが、 大円が十によって四つの区域に分割されるとき、 そのそれぞれはどのような意味を持つのでしょうか。 相似象に繰り返し言及されるところによれば、 「ヒ」から響く(ヒビク)根源的な力、 「カ」が、 自然の順序である左回りに旋回するとき、 事物は 「ミ」(実、見、身)としてこの地上に出現するといいます。 物理的な様相を身にまとったこの基本的なエネルギーは、 「イ」(意、居、入)に到達することで人間の思考過程に転換されるとされ、 このことは、 現象の背後に隠された事物の本質を、 抽象的かつ物理的な手段によって統括し、 その本質のコピーとして事象の境界線に表出させるという 「コトバ」という声音によっても理解されます。
 コ ト ハ
つまり 「コト」というのは、夜の暗闇から翌朝の太陽を生み出すがごとく 事物の物理的な極限状態を表す声音符であり、 これを人間が 「ハ」(派、葉、枝、橋、端)する、 つまり、潜象と現象の間を橋渡しするということです。

こうして「ヒフミヨイ」と抽象化された事物の本質は、 「ムナヤコト」というふうに最後には全一の状態に還元されていきます。 このような流れで、カタカムナ図象の大円における、 四つの領域を観察してみると、 「ヒ」から 「イ」までが、「生命が流出する」領域、 「ム」から 「コト」までが、再び一つの場所に戻っていく領域であると考えられるのではないでしょうか。

次にシュタイナーが「霊界」の四つの領域についてを述べた箇所を見てみましょう。
外界は、人間の感覚的な観点に立つと、 まず四つの段階にはっきり分けられる。 鉱物的、植物的、動物的、人間的段階である。 鉱物界は、感覚によって近くされ、思考によって理解される。 鉱物について思考する人は、二重の存在に、すなわち感覚的事物であり、 思考内容であるものに係わっている。 したがって、感覚的事物を濃縮された思考存在として捉えることが必要なのである。 この鉱物的存在は、他のものに対して、外的な仕方で作用する。 他のものにぶつかり、それを動かす。 あるいはそれを熱し、それに光をあて、それを溶解する等々。 このような外的な作用の仕方は、施行内容として表現されることができる。

・・・(中略)・・・

植物界においては、事物が事物に加える外的作用のほかに、 なお生長と繁殖という現象がつけ加わる。 植物は自分を育て、自分の中から自分と同じうような存在を生み出す。 つまり人間が鉱物界で出会うものの他に、なお生命がつけ加わる。 この事実を素直に考えるなら、ひとつの展望がひらける。 植物は、自分自身に生きた形態を与えるだけでなく、 自分が生み出した存在をも同じ生きた形態にする力をない方している。

・・・(中略)・・・

動物界では、生長と繁殖の能力のほかに、感覚と衝動とがさらに加わる。 感覚と衝動は魂界の表現である。 これらをもつ存在は魂界に属し、魂界から印象を受けとったり、魂界へ働きかけたりする。
動物に現れる感覚や衝動はすべて、動物の魂の奥底から引き出されてくる。 形態は感覚や衝動よりも、もっと持続的である。 変化する植物形態と、固定した結晶形式との関係は、 感覚生活と、より持続的な生命形態の関係に対応しているといえるだろう。 植物は形態を形成する力の中に、いわば埋没している。 植物は生長を続ける限り、常に新しい形態をつけ加える。 はじめ根を張り、葉を拡げ、花を咲かせる。 動物は自己完結的な形態を作り上げ、その形態の中で、 替わりやすい感覚生活と衝動生活とを営む。

・・・(中略)・・・

人間は、植物と動物がもっている能力以外に、 感覚内容を再現して思考内容に作りかえ、 衝動を思考の力で統御する能力を身につけている。 ・・・(中略)・・・ 人間における思考の器官は、まったく人間の内部から作り出される。 人間の霊的器官として、完全な脳にまで形成された人間の神経系は、 植物や動物の場合、非感覚的に働いている力の本性が、 可視的となって働いている姿なのである。だからこそ、 動物が自己勘定を示すのに対して、 人間はなおその上に、自己意識をも示すのである。

(ルドルフ・シュタイナー著 高橋巌訳 2000 「神智学」 ちくま学芸文庫 pp166-171)
そして「霊界」の基本的な「四つの領域」の他に、 第五、第六、第七と続くのですが、そのことについて、 シュタイナーは次のように語ります。
第五、第六、第七領域は以上の領域から本質的に区別される。 なぜなら、これらの領域の本性たちは、 低次の諸領域の原像に活動の原動力を提供するのだから。 原像の想像力そのものが、彼らの中に存在している。 この高次の諸領域にまで上ることのできた人は、 われわれの世界の根底にある「意図」を知るようになる。

(ルドルフ・シュタイナー著 高橋巌訳 2000 「神智学」 ちくま学芸文庫 p.143)
いずれにしても、シュタイナーが言わんとすることは、つまりこうです。 「霊界を観察してみるのなら、 そこには鉱物、植物、動物、人間存在のそれぞれに固有の 四つの領域が認められる。また、鉱物に表現されるものは、 物理的な存在であると同時に、人間の思考によって理解されるべきものである」 ということになるわけです。 この「鉱物界」の特異性に注目するのなら、 これはカタカムナで表現される「モノ」から「コト」への変容の領域、 つまり、 「コト」の部分で考察される作用と同等ではないでしょうか。 すると、こう考えられるわけです。
「ナ」から 「ヒ」までの第一の領域・・・・鉱物界
「ヒ」から 「ミ」までの第二の領域・・・・植物界
「ミ」から 「イ」までの第三の領域・・・・動物界
「イ」から 「ナ」までの第四の領域・・・・人間界
四つの領域についての詳細の説明は、 シュタイナー著「神智学」を書店で買い求めてご自分で読んでいただくとして (余りにもページ数が多いのでまとめるのがちょっと面倒くさいだけです)、 それぞれの性質についてを、 四つ領域を明示するようなカタカムナの代表的な声音符:
ヌ  ヱ  ユ 
と対応させ、表にしてみます。

第一領域
(鉱物界)
没形象的な原像的存在界(第一元素界)
人間の原像が感覚界で可視的になるまで濃縮されることによって生じる肉体の領域。
第二領域
(植物界)
形態を創造する存在界(第二元素界)
形態化された原像が、感覚界に非感覚的に働きかける不可視的な生命構成体(エーテル体)の領域。
第三領域
(動物界)
魂的存在界(第三元素界)
上の形態化された生命の原像と同様に、魂界の原像にまで形成された感覚する魂体(アストラル体)の領域。
第四領域
(人間界)
創造された形態界(結晶状態)
思考する人間の原像が思考内容に形成され、 感覚界の中でこれが直接に作用することによって生じる悟性魂。
第五領域
(高次の植物界)
  感覚的に知覚できる形態とこの形態を創造する存在とがともに働く領域
第六領域
(高次の動物界)
  感覚的に知覚できる形態とこの形態を創造する存在たちとの他に、 魂敵生活をいとなむ本性たちの働く領域
第七領域
(高次の人間界)
  感覚的に知覚できる形態とこの形態を創造する本性たちと 魂敵生活をいとなむ本性たちの他に、霊そのものが、 思考内容という形式をとって感覚界に現れる領域


上の図では、カタカムナの図では示されていない第五、第六、第七の領域も付け加えました。 しかし、実際、これらは「示されていない」わけではないように思えます。 なぜなら、カタカムナ図象の場合、説明される対象が、 人間を含まない場合、そ声音符は十の字を持っていません。 この十との関連において、大円の上に描かれるそれぞれの小円こそが、 その事象において人間が立っている「位置」もしくは「視点」であり、 自然の事象を基底に捉えて人間の要素である小円を加えるのなら、 そこには厳然としてシュタイナーが言うような第五、第六、第七の領域が表されています。 すなわち、小円は時間の過程を表現するのと同時に、 自然の中に人間が送り込まれた状態において、 それら自然の事象がどのように変容されているかを観察するためのヒントを与えているのだ、 と思うわけです。

最後に、大自然の中に表現され、 われわれの周囲の世界を色彩っている四つの領域の形成力のそれぞれを、 どのように扱うべきであるかについてを語るシュタイナーの言葉を引用します。
この世に生を受けた人間は、物質界で創造活動を行う。 彼は物質界の霊的存在として創造活動を行う。 人間は、自分の霊が考案し、形成するものを、 物質の形態に、物質の素材と力とに刻みつけ、 霊界の使者として、霊を物体界に同化させる。

人間は、肉体をもつことによってのみ、物体界に働きかけることができるから、 肉体を道具として使用しなければならない。 そうすれば、物体的なものを通して、 物体的なものに働きかけることができるし、 物体的なものが彼に働きかけることもできる。 けれども人間の体的本性を貫いて働きかけているものは、 霊に他ならず、物体界で作用するための意図、方向は霊から来ている。

・・・(中略)・・・

人間は、物質の性質や力を、 この世の舞台で学ぶ。 この舞台の上で、創造活動を行いながら、 物質界がそこで働く自分に何を要求するのかについて、経験を蓄積する。 そして自分の思想、理念を具体化するための素材の性質を知ることを学ぶ。 しかし思想や理念そのものは、素材から吸収することができない。 このようにして、地上世界は、創造の場であると同時に、学習の場でもある。 「霊界」では、この学習の成果が、 霊の活発な能力に変化させられる。

(ルドルフ・シュタイナー著 高橋巌訳 2000 「神智学」 ちくま学芸文庫 pp146-148)



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